人のために何ができるかを考え、尽くすことができる人は、素敵な人だと思う。
しかし、人のために尽くすということが、自分のことよりも優先したり、我慢しすぎるようなことがあってはいけない。
我慢しすぎると、相手のことが段々と嫌になっていき、しまいには自分より上手くいっていることに恨みつらみを言うようになってしまうのである。
その様な関係は、健全ではないのである。
自主的な尽くし
誰に要求されるでもなく、何かをしてあげたいと思うのは素晴らしいことだと思う。
困っている人の助けになったり、喜んでいる姿を見たりすることで、自分も満たされることは幸せだ。
しかし、それはあくまでも自主的な行動であって、決して人から要求されてではない。
ボランティア活動に参加する人だって、自主的に行動するから見返りを求めないで、がんばれるのである。
強制的な尽くし
これが人から強要され、自分が本当はしたくないと思っていたり、理不尽と思いながらするのは、よくない。
自分の心に「ダークサイド」を作り出すことになる。
まだ無邪気だった小学生の頃、私の心に「ダークサイド」を生み出した出来事があった。
それは、近所の学校行きたくない子の登校に、毎日付き合わせられたこと。
小学生一年生の私は、近所の同級生と毎日一緒に登校していたのだが、二年生になってから毎日遅刻するようになった。
原因は、一つ学年が下の近所の子と、一緒に登校する様になったからである。
その遅刻は、自分にとっては何一つ納得できない理不尽なもの。
それは、私が自ら一緒に登校したいと思ったわけではない。そこのお母さんに「一緒に行ってあげてね」と言われたのと、私の母に「一緒に行ってあげなさい」と言われたから。
その近所の子は、困ったことに毎日学校に行きたくないと、泣き叫んでいたのである。
よって、それまで一緒に通っていた同級生たちは「遅刻するから」と、先に登校する様になった。the・おいてけぼり( ;∀;)
毎日、すでに朝の会が始まっている教室に入るのは勇気がいったし、先生の冷たい視線も怖かった。
その子の家に着く前に、今日こそは絶対「先に行く」と言おうと、何度も練習した。
しかし、そこの家族の皆さんは、泣き叫ぶ我が子を学校に行かせることにしか頭になく、私が毎日遅刻しているという事実をスルー。
「ほらほら、えみ子ちゃんが迎えにきてるよ!早くいかないと!」と、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、時々お父さんも、総出でなぐさめる。
そんな大人たちを前に、小学二年生の子供がハッキリ「先に行きたい」と言える訳もなく、私の遅刻生活は長く続いたのである。
ダークサイドの誕生
これが自主的に、泣き叫ぶ近所の子と「私が一緒に行ってあげないと」と思っていたならいい。きっとその子が登校拒否にならなくて良かったと、嬉しく思えたかもしれない。
しかし、私の本音はそれまでと同様に同級生と一緒に登校したかったし、その子が登校拒否になろうが知ったことではない。大人なら「ヒドイ」と白い目で見られるかもしれないが、だって小学生の子供だったから、そんなもんでしょ!??
毎日遅刻するし、それまで一緒に登校していた同級生とも距離ができてしまって、完全に浮いた存在になっていたのだよ。
このように、小学生の頃の思い出を今でも忘れられないでいるのは、相当恨んでいたからだ。
私の「ダークサイド」は強力なのである。( ̄Д ̄)ノ粘着質ともいう。
近所の子本人と、同級生でもなかったその子と、一緒に登校する様に求めた周りの大人たちのせいでぇ〜!と思うことが多かったと思う。
強制的に尽くした結果、そこまでしても当人同士は仲良くなるわけでもないし、はっきり言って、その子のことは苦手になった。母親同士は今でも仲良しだけどな!!
自主的な尽くし以外は、自分の精神衛生上、良くない。自分の性格を悪くする。
毎日泣き叫んでいたその子は、今では結婚して子供もおり、セレブな専業主婦生活を送っているというのに、私は一人地元から離れ、パートナーもいないし、友人関係も上手くいかない!!
なぜだ!??(スターウォーズの)ダース・ベイダーのようになってしまいそうな、えみ子さんなのであった。シュコーシュコーヽ(;▽;)ノ
ではでは。
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